日吉大社地図
西本宮・東本宮
山王鳥居 地図 |
合掌鳥居(または破風鳥居)ともいわれ、神仏習合の 信仰を表す独特の形でる |
比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前の崇神天皇七年に 創祀された、 全国3800余の分霊社 (日吉、日枝、山王神社) の総本宮です。 東本宮のご祭神である大山咋神は日本最古の書物である古事記にも その御神名が記されている比叡山の山の神様です。 また、西本宮のご祭神である大己貴神は、天智天皇の御代に奈良から 大津への遷都が行われた際に奈良の三輪山より御神霊をお迎えし、国家 鎮護の神として祀られました。 平安京遷都の折には、この地が都の表鬼門(北東) にあたることから、 都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を 開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方より崇敬を受け、今日に 至っています。 境内には魔除けの象徴として、 神猿 (まさる) と呼ばれる猿が祀られ、 「魔が去る、 何よりも勝る」 に因んで大切にされてきました。 中世には織田信長公の焼き討ちによって、 以前の建造物等全て灰燼に 帰しましたが、その後の復興によって今日の姿となっています。 また、境内には約3000本のもみじがあり、 関西屈指の紅葉の名所と して多くの参拝者で賑わいます。 |
日吉大社西本宮楼門 |
楼門とは、二階建で階上に縁があり、屋根 は上の一つしかない形式の門のことです。 西本宮楼門は東本宮楼門と同様、三間 一戸(戸とは出入口のこと)、入母屋造、桧皮葺の 建物です。東本宮楼門と比べると規模は 大きく壮麗です。木部は丹塗を主とした もので、上下の釣り合いがよく、樹の緑によく 映えます。 四隅には猿の彫刻、前後に極彩色 の墓段があります。 確実な資料はまだ発見されていませんが、 天正十四年(一五八六)頃に造営されたもので はないかと推定されています。 大正六年四月五日に国の指定文化財と なりました。 大津市教育委員会 昭和六十三年二月 |
西本宮・楼門 |
3800の分霊社(日吉神社・日枝神社・山王神社)の総本宮。 また、延暦寺との縁が深く、神仏習合の象徴的存在である。 |
東本宮 祭神 大山咋神 大山咋神は比叡山に鎮座する地主神 |
日吉大社西本宮本殿 国宝 |
西本宮 祭神 大己貴命 大己貴命は天智天皇が大津遷都の際に、三輪山から神霊を迎え、 国家鎮護の神としてまつった。 |
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、 檜皮葺の建物です。 日吉造は、一名を聖帝造ともいい、全国で は、日吉大社にだけみられる特殊な構造です。 つまり、三間・二間の身舎(もや)の前面、両側 面の三方に廂(ひさし)がめぐらされた形で、 天正一四(一五八六)年に復興されたもの ですが、慶長二(一五九七)年に改造されて います。 昭和三六(一九六一)年に国宝に指定されました。 大津市教育委員会 平成四(一九九二年三月 |
日吉大社摂社宇佐宮本殿 重要文化財 |
日吉大社摂社白山姫神社本殿 重要文化財 |
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、 檜皮葺の建物です。 西本宮本殿、東本宮本殿と同じく日吉造 (聖帝造)の典型的なもので、三間・二間の身 舎の前面、両側面に一間の廂をめぐらし、側 面や背面に特色があります。 他とは、ほとん ど同じですが、正面の階段前に吹寄格子をい れた障壁が設けてあるのが大きく異なります。 また、高い床下には大きな岩が露出していて 何か意味ありげなものです。 慶長三(一五九八)年に建てられたものです。 明治三四(一九〇一)年八月に国の重要文 化財に指定されました。 大津市教育委員会 平成四(一九九二年三月 |
この本殿は三間社流造、檜皮葺の建物で、 三間・二間が身舎、その前方一間通しの廂が 前室となっています。 この本殿と樹下神社本殿とは、ほぼ同形式と なっていますが、装飾金具が少なく簡素な造り で地味な落ち着いた中にも、各部の意匠に意 を配った建物です。 また、向拝は一間で浜床 付き、前室の正面は蔀戸(しとみど)となってい 慶長三(一五九八)年に建てられました。 明治三九(一九〇六)年四月に国の重要文化 財に指定されました。 大津市教育委員会 平成四(一九九二年三月 |
花手水 |
三宮遥拝所 地図 祭神 鴨玉依姫神荒魂 |
金大巌遥拝所 地図 | 牛尾遥拝所 地図 祭神 大山咋神荒魂 |
八王子山上の急斜面に2つのお社がある。 その間にある高さ10mの岩がこの神社の 始まりの場所とされている。 |
山王神輿 重要文化財 |
山王神輿七基 全国神輿のルーツが山王神輿で ある事は有名で平安の昔桓武天皇 から室町にわたる三百七十余年の 間に四十数回の上洛強論が行わ れた。重量五百貫(ニトン)の神輿を 海抜八五〇メートルの日枝山をか つぎ越えて入洛したエネルギーは 平安時代の神輿は元亀の乱で焼失 した。 重要文化財に指定されている。 日吉大社神輿が基現存する。 |
日吉大社東本宮楼門 |
日吉大社東本宮本殿 国宝 地図 |
東本宮 祭神 大山咋神 |
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、 檜皮葺の建物です。 日吉造は、一名を聖帝造といい、三間・二 間の身舎の前面、両側面の三方に廂がめぐら された形をし、側面、背面が特徴のあるもの となっています。この様式は、全国でも日吉 大社にのみ現存している形で重要なものです。 東本宮本殿は、西本宮本殿とほぼ同様の造 りですが、背面の三間の床が一段高くなって いるのは、異なるところです。 文禄四(一五九五)年に西本宮本殿に引き 続いて復興された日吉造の代表建築です。 昭和三六(一九六一) 四月に国宝に指定さ れました。 大津市教育委員会平成四(一九九二)年三月 |
日吉大社東本宮拝殿 重要文化財 地図 |
拝殿は本殿の前に独立する方三間(桁行 三間、梁間三間)一重入母屋造、桧皮葺 妻入の建物です。 四方の柱間は吹放しで屋根の妻飾(屋 根の三角部分)には木連格子(縦横の細か い格子)を入れています。また廻縁には高欄 がつき、天井は小組格天井となっています。 「文禄五年三月吉」の墨書がある天井 の格縁が一本残されていて、一五九六年頃の 建築であることがわかります。 昭和三十九年五月二十九日に国の指定文化財 となりました。 大津市教育委員会 昭和六十三年二月 |
日吉大社摂社樹下神社本殿 重要文化財 地図 |
祭神 鴨玉依姫神 本宮の祭神 大山咋神と夫婦。 |
この本殿は三間社流造、檜皮葺の建物で、 後方三間、二間が身舎、その前方一間通しの 廂が前室となっています。 数ある流造のなかでも比較的大型のもので、 床下が日吉造と共通した方式であることや向 拝階段前に吹寄格子の障壁をたてているのは、 この本殿の特色となっています。 文禄四(一五九五)年に建てられたことが 墨書銘によってわかりますが、細部の様式も 同時代の特色をよく示し、格子や破風、懸魚 などに打った飾り金具は豪華なものです。 明治三九(一九〇六)年四月に国の重要文 化財に指定されました。 大津市教育委員会 |
日吉大社摂社樹下神社拝殿 地図 |
日吉大社摂社樹下神社拝殿 |
この拝殿は、桁行三間、梁間三間、一重、 入母屋造妻入り、檜皮葺の建物です。 方三間といわれる拝殿ですが、他とは、柱 間が四方とも格子や格子戸となっている点が 異なっています。 屋根の妻飾は木連格子、 天井は小組格天井、回り縁は高欄付きとなっ ていて本殿と同じく文禄四(一五九五)年に 建てられたものです。 なお、樹下神社の拝殿と本殿を結ぶ線と、 東本宮の拝殿と本殿を結ぶ線が交わるのは、 珍しいものです。 昭和三九(一九六四)年五月に国の重要文 化財に指定されました。 大津市教育委員会 平成四(一九九二年三月 |
創建の年代は明らかでないが、崇神天皇7年(紀元前91年)勅命で、大山咋神を山上に祀らせ、 小比叡と称した。 天智天皇7年(668)には鴨賀島8世の孫宇志麿に勅して、大物主神を比叡山に祀らせたという。 これを大比叡と称し、中世以降、大比叡を大宮、小比叡を二宮と称した。 |
最澄が延暦寺を創建すると、その鎮守とし日吉山王、または山王権現とも称した。 延喜式の名神大社に列し、22社の列に加わる。 後三条天皇が、延久3年(1071)に臨幸したのをはじめ、歴代の天皇・上皇の臨幸があった。 室町期になると、多宝塔など仏教施設が林立し、神仏習合の山王社として最盛期を迎える。 焼き討ち後、豊臣秀吉、徳川家康によって再興され、明治初期の神仏分離で仏教に関係するもの すべて取り除かれた。 |
方除け、厄除けのお守りの神猿(まさる)は御所の鬼門の守護で知られ、西本宮楼門軒下の四隅には 木彫りの猿が屋根を支える。 |
祭典で有名なのは、4月の山王祭(神事の総称)りがある。 4月12日には2基の神輿を八王子山から担ぎ下ろす「午(うま)の神事がある。 4月13日には甲冑(かっちゅう)姿の稚児が行進する「花渡り式」や神輿を激しく揺する「宵宮落とし神事」がある。 4月14日には琵琶湖で神輿の船渡御がある。 |
京阪坂本駅前を東西に延びる広い参道は日吉馬場といい、織田信長焼き討ち後の復興坂本の、 都市計画道路であった。 |
約13万坪の境内に約3、000本の紅葉、カエデが映える。 |
大津市坂本 比叡山⇒ |
山王総本宮 日吉大社 な境内には老樹が茂み、特にもみじの名所として広く知 られている。 この広い境内には、108社といわれる多くの神々が祀ら れ、御主神は大山咋神 (東本宮)、大巳貴神(西本宮)の二 柱で、古事記神代巻に「日枝の山に坐す大山咋の大神」と 記されている日吉大社は神代に創建されたことがうかが え、日本では最も古い神社である。又、日吉大社は東本 宮、西本宮共に本殿は国宝であり、その他社殿17棟と神 興7基、又、石橋はいずれも重要文化財であり日吉の森 にこれだけ多くの国宝、 重要文化財があるのは全国でも 誠に珍らしいといえよう。 日吉東照宮 がある。この東照宮は、日光東照宮の雛型として造られ たものでその豪華さは西日本随一といわれ、 関西の日光 として広く知られている。(重要文化財) 天台真盛宗総本山 西教寺 とした。以後荒廃していたものを室町時代真盛上人の手 によって再興されたものの元亀2年の兵乱で信長に焼打 ちされ多くの宝物が失われた。 西教寺の復興には、 明智光秀の努力があればこそ不断 念仏が受けつがれ、 深閑とした境内には今日も鉦の音が 響き渡っている。 |
亀井靈水 地図 |
古老の伝えでは、昔ここには池があり、 伝教大師参拝の折、霊亀が現れて浮かんできた。 捧げる水を汲む井戸)にするべしと御託宣 があり「亀井」と名付けられた。最名水也。 「日吉山王権現知新記」 |
新物忌神社 | 大物忌神社・早尾神社 |
新物忌神社 新行事 |
山王曼荼羅 | 大物忌神社 大行事権現 |
早尾権現 |
新物忌神社 旧称、新行事 御祭神 天知迦流水姫神(あめちかるみず) 東本宮・大山咋神の母神 大年神の妃神 御名から、「水の神・瑞々しく美しい神」と言われています。 山王二十一社の内、山王曼荼羅には、姿が美しく描かれています。 |
大物忌神社 御祭神 大年神(おおとしのかみ) 創建 天地開闢とも、平安期創建とも言われています。 御利益 五榖豐穰 東本宮の御祭神である、大山咋神の父神をお祀りして お猿さんの顔をされた神様で、そのお姿は、山王曼荼羅にも |
早尾神社 御祭神 須佐之男尊(すさのおのみこと) 創建 根本中堂建立の時、毎日お出ましになられたので、 御利益 魔除け・病気平癒 縁結び・商売繁昌 天照大御神の弟神で、ヤマタノオロチを退治した勇猛な神。 山王曼荼羅にも描かれています。 |
日吉大社日吉三橋 | ||
大宮橋 重要文化財 |
走井橋 地図 | 二宮橋 重要文化財 |
大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川 にかかる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形 式をそのまま用いています。 幅五・〇メートル、長十三・九メートルで、川の中 に十二本の円柱の橋脚をたて、貫でつなぎ、その上 に三列の桁をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を 渡しています。 両側に格座間を彫り抜いた高欄をつけるなど、 日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄 大な構造の代表的な石造桁橋です。 天正年間(一五七三~九二)豊臣秀吉が寄進した。 と伝えられていますが、 木橋が現在の石橋に掛け 替えられたのは、寛文九年(一六六九)のことです。 大正六年(一九一七)八月、日吉三橋の一つとし 国の指定文化財となりました。 |
二宮橋は、東本宮(二宮)へ向かう参道の、大宮川 にかかる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形 式によって造られたものです。 川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、その上に 三列の桁をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡 し、両側に高欄をつけています。 上流にかかる大宮橋とほぼ同規模で、幅五・○メ ートル、長十三・九メートルを測りますが、構造は より簡単で、橋脚の貫もなく、高欄も板石と擬宝珠 付親柱で構成されています。 天正年間(一五七三~九二) 豊臣秀吉が寄進した と伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け 替えられたのは、寛文九年(一六六九)のことです。 大正六年(一九一七) 八月、日吉三橋の一つとし 国の指定文化財となりました。 |
神猿舎と神馬舎 地図 |
猿は神様のお使いで「神猿」と呼ばれ 「魔が去る」として縁起の良いものとされてきた。 |
神猿⇒ |
猿の霊石 |
日吉大社末社東照宮 三棟(大津市坂本五丁目) 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、銅 瓦葺の本殿と、その前面にある桁行五間、梁 間二間、一重、入母屋造、銅瓦葺の拝殿とが 桁行三間、梁間一間、一重、両下造、銅板葺 の石の間(相の間)によってつながれた建物で、 権現造という形式の典型です。 この社殿は、日光東照宮に先立って、寛永 十一年(一六三四) 天海僧正によって営まれた その後方に千鳥破風がつき、蟇股(かえるまた) 正面入り口の四脚唐門と周囲にめぐらされ た透塀(すかしべい)も美しく、社殿とよく調和し 大正六年(一九一七)四月に国の重要文化財 となりました。 大津市教育委員会 平成八年(一九九六)三月 |
遠くに見える山は琵琶湖東部にある三上山(近江富士・432m・地図) |
御祭神は三柱で、中央に徳川家康公,向かって右側が日吉大神,
向かって左側が豊臣秀吉公が祀られている。明治の御世に至るま で延暦寺の管轄下にあったが神仏分離令が出されるとともに日吉 大社の管轄となり、明治九年(一八七六年)に当社の末社に制定 された。 全国の東照宮造営の経過としては、元和二年徳川家公の没後そ の遺命により静岡久能山に祀られ、一年後には日光に祀られている。 現在見られる様な本殿と拝殿を石の間で繁ぐ、いわゆる「権現造り」 の発祥はここ日吉東照宮といわれている。徳川三代将軍家光公上洛 の途次に比叡山天台宗の大僧正天海上人に命じて考えさせた権現造 りは、石の間が数段低く設計され、祭典奉仕者が将軍に背を向けて 奉仕をしても非礼札にならないように配慮されている。日光東照宮の 様に本殿・石の間・拝殿・向拝が一体ではなく、拝殿から本殿に伸 びる梁が本殿まで達しておらず軒下で止まっている等、本殿と拝殿 を如何に繁ぐかを苦心した跡が伺える。 日吉東照宮は、元和九年(一六二三)に造営され、その後僅かの 歳月にもかかわらず、寛永年間に再建著工(現社殿) し、同十一年 (一六三四)七月には勅使を逆えて盛大に正遷座が斎行されている。 その秋に日光東照宮が再建に着工され、同十三年春に正遷座されて いる事を鑑みても、当社が日光の雛形として再建されたといわれる 所以である。 大正六年に東照宮社殿が国の特別保護建造物となり、昭和四年に 国宝、同二十五年に重要文化財に指定、同三十一年には唐門と好塀 が追加指定された。東照宮橋(権現橋)は昭和十年に水害のため流 失した。 |